2008年8月12日火曜日

戦犯 東条英機 手記  と 果て無き消耗戦レイテ決戦

東条元首相 終戦直前の手記
太平洋戦争の開戦時に内閣を率いた東条英機元首相が、終戦の直前に当時の政府への批判などをつづった手記が、国立公文書館に所蔵されていたことがわかりました。
手記は、指導者の立場を退いた東条元首相が終戦直前の昭和20年の8月10日から14日にかけて書いたもので、手記を預かった弁護士が国に寄贈した際、和文タイプライターで打ち直されたものが、国立公文書館に所蔵されていました。手記には、広島と長崎に原爆が投下され敗戦が決定的になるなかで、なお戦争の継続にこだわった元首相の心境がつづられています。このうち8月13日の手記には、ポツダム宣言の受諾を決めた当時の政府の指導者について、「敵の脅威に脅え(おびえ)、簡単に手を挙げる(あげる)」とし、国民についても、だらしないという意味を込めた「無気魂(むきだましい)」という表現で批判しています。また、終戦の前日の14日には、かつての自分の秘書官にあてて、敗戦の責任について、「重大なる責任を痛感する」、「死を以て(もって)御詫び(おわび)申し上げる」と記しています。東条元首相の手記は、終戦後に書かれたものはこれまでも知られていますが、終戦間際の手記が明らかになったのは初めてだということで、昭和史に詳しい作家の半藤一利さんは「戦況の不利を指導者や国民のせいにするなど、元首相の本音がかいま見える興味深い資料だ」と話しています。

東条元首相の直筆とみられるメモ公開 国立公文書館   Nikkei Net
 東条元首相メモ公開 直筆、一部筆跡異なる
国立公文書館(東京・千代田)は13日、太平洋戦争開戦時の首相、東条英機・陸軍大将が終戦直前の1945年8月10日から同14日にかけて記したメモを公開した。本人の直筆とみられるが、筆跡が異なる個所も含まれているという。
 公文書館によると、メモははがき大の用紙約30枚に日付順に鉛筆で書かれていた。「敵の法廷に立つごときことは日本人として採らざるところ」と自決の覚悟を述べた個所などは、これまでに判明している資料との比較などから東条元首相の直筆とみられるという。一方、ポツダム宣言の条項について記した12日の記述は、他とは筆跡が異なっていた。
 メモは極東国際軍事裁判(東京裁判)で東条元首相の弁護人を務めた清瀬一郎氏が法務省に寄贈した裁判資料の中にあり、99年に同省から公文書館に移管された。メモを打ち直したとみられるタイプ版も含まれていた。

東条元首相、終戦直前の手記みつかる 責任転嫁の言葉も
 太平洋戦争開戦時の首相、東条英機陸軍大将が終戦直前の1945年8月10日から14日の間に書き残した手記が国立公文書館(東京・千代田)に所蔵されていることが分かった。手記では終戦に反発し、ポツダム宣言受諾に至る背景として「国政指導者及び国民の無気魂」を挙げるなど責任を転嫁、軍人の論理に固執する考えが見られた。
 東条元首相の手記はA級戦犯被告として巣鴨拘置所で書かれたものがあったが、終戦間際の手記の存在が明らかになったのは初めて。

東条元首相の直筆メモ公開 無条件降伏「国民がのろう」 asahi.com
1945(昭和20)年8月10日から14日にかけ、東条英機元首相が書いた直筆メモが、国立公文書館(東京都千代田区)から公開された。無条件降伏すれば国民が「軍部をのろう」とし、天皇制を中心とした「国体護持」が受け入れられないなら「敢然戦うべき」と戦争継続を昭和天皇に訴えた様子がうかがえる。
 太平洋戦争開戦時の首相だった東条氏の終戦直前の言動は、寺崎英成御用掛らによる「昭和天皇独白録」などで断片的に伝えられるだけで、詳細を補う貴重な資料となる。
 メモははがき大の用紙30枚に日付順に鉛筆で書かれていた。国体護持を条件に連合国側のポツダム宣言の受け入れを御前会議が決めた10日に始まる。すでに首相を辞めていた東条氏を含む首相経験者らは重臣会議で経緯を説明され、意見を求められた。「メモ魔」の異名をとる東条氏は、天皇に上奏したとする内容を「奉答要旨」として細かく残していた。
 中心は、ポツダム宣言が求める「日本国軍隊の完全武装解除」への懸念だ。「手足を先(ま)づもぎ、而(しか)も命を敵側の料理に委する」ようだと例えながら、武装解除に応じてしまえば、国体護持は「空名に過ぎ」なくなると訴えた。「敵側」が国体護持を否定する態度に出れば「一億一人となるを敢然戦うべき」と上奏したとしている。
 戦争の目的は「自存自衛」「東亜の安定」にあり、目の前の戦況に心を奪われないように求めたとも書いている。
 長崎原爆投下から2日後の11日以降は自身の思いを書きつづる。「無条件降伏を応諾」すれば「稍(やや)もすれば一段安きに考えたる国民として軍部をのろうに至るなきや」と記し、見下ろすような考えを示しながらも国民の反応を気にする姿が見える。さらに日本軍は「相当の実力を保持」と見解をつらね、「簡単に手を挙ぐるに至るが如(ごと)き国政指導者及(および)国民の無気魂なりとは、夢想だもせざりし」と当時の内閣や国民に不満をぶつけた表現もある。
ポツダム宣言受諾が御前会議で再確認された終戦前日の14日は、秘書官だった赤松貞雄・陸軍大佐あてで、「敵の法廷に立つ如きことは、日本人として採らざる」と書き、自決を示唆した。9月11日、東条氏は銃自殺を試みて失敗している。
 メモは、東京裁判(46年5月~48年11月)で東条氏の主任弁護人だった清瀬一郎氏が法務省へ寄贈。同省は東条氏の「直筆」として内容を転写し、99年に、原本とともに国立公文書館に移管していた。(谷津憲郎)
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 〈東条英機元首相〉 1884年、東京生まれ。関東軍参謀長などを経て、1940年に第2次近衛内閣で陸軍大臣に。対米英戦で主戦論を唱え、41年10月に首相に就任し、12月に開戦に踏み切った。戦況が悪化した44年7月に総辞職。戦後、A級戦犯容疑者として東京裁判に起訴され、48年12月、巣鴨拘置所で処刑された。

東条元首相の終戦直前手記見つかる…14日に自殺決意記す Yomiuri On Line
東条英機元首相が、太平洋戦争の終結直前の1945年8月10~14日に書いた手記が、国立公文書館(東京都千代田区)に所蔵されていることがわかった。
手記には、終戦に反発する東条元首相の「本音」が散見され、研究者は「歴史的に価値ある資料」としている。
 同館によると、手記は東京裁判で東条元首相の弁護人を務めた清瀬一郎氏が法務省へ寄贈した資料の一部。鉛筆書きの肉筆メモのほか、60年代に和文タイプで打ち直された資料がある。法務省が99年度に同館へ移し、昨年から一般公開の扱いとなった。
 8月10日の手記では、「東亜安定と自存自衛を全うすることは大東亜戦争の目的なり、幾多将兵の犠牲国民の戦災犠牲もこの目的が曲りなりにも達成せられざるにおいては死にきれず」(かな部分は原文ではカタカナ)と、重臣が集まった懇談会での自身の発言要旨を記録。
 13日には、「もろくも敵の脅威に脅え簡単に手を挙ぐるに至るがごとき国政指導者及国民の無気魂なりとは夢想だもせざりしところ、これに基礎を置きて戦争指導に当りたる不明は開戦当時の責任者として深くその責を感ずる」と自分の考えを記し、当時の鈴木貫太郎内閣や国民を批判している。
 終戦前日の14日には、「大義に殉ぜる犠牲もついに犬死に終らしむるに至りしことは前責任者としてその重大なる責任を痛感する。事ここに至りたる道徳上の責任は死をもっておわび申上ぐる」と自らの死を決意している。東条元首相は終戦後の9月11日に拳銃自殺を図り、一命を取り留めた。
 昭和史に詳しい作家の半藤一利さんは「終戦直前の手記が公になるのは初めてで、価値がある。終戦間際の揺れる思いがよく分かり、戦況の不利を国民や当時の指導者のせいにする本音が表れていて面白い。終戦直前まで、東条は軍人として戦争継続をあきらめていなかったことは意外だった」としている。
 また、東条元首相に関する著書があるノンフィクション作家の佐藤早苗さんは「東京裁判中の手記は明らかにされていたが、終戦前のものは聞いたことがない。感情をあらわにした表現もあり、当時の政府幹部が終戦に傾いていくのを、裏切られたような気持ちで見つめていたのではないか」と話している。
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 東条英機 1884~1948。軍人、政治家。関東軍参謀長、近衛内閣陸相などを歴任。太平洋戦争開戦時の首相で、戦況が不利になり、44年7月に辞職。戦後はA級戦犯として、極東国際軍事裁判(東京裁判)で裁かれ、絞首刑となった。


果てなき消耗戦 証言記録 レイテ決戦
昭和19年秋フィリピン中央部レイテ島で、太平洋戦争の一大転換点となる決戦が行われた。戦いに投入されたのは日米両軍合わせて30万人以上。現地住民を含め10万もの命が奪われた。とりわけ日本軍は全兵力の97%にあたる8万人という大きな犠牲を払うことになる。その悲惨な戦場を生き抜いた人々が今回、重い口を開いた。レイテ島を決戦の場とした日本軍は、アメリカ軍が弱体化しているという誤った戦況判断の下に、兵站を軽視した杜撰な作戦を立てていた。そのため一線で戦う兵士たちはアメリカ軍の圧倒的な火力にさらされ、弾薬や食糧の補給もないままに無念の死を遂げていく。間違いに気づいた後も日本軍は作戦を改めず、兵士たちは銃剣を手に敵陣地に突入する「斬り込み」という無謀な戦法を命じられるようになる。一方アメリカ軍も砲撃などを強め、そうした中で多数のレイテの住民が巻きこまれ、命を落としていった。番組では、日米両軍の元兵士、現地のレイテ住民や対日ゲリラなど、生存者の証言を広範に収集。今もなお戦場の傷の癒えない日米比三国の人々の生々しい証言から、餓死や同士討ちまで起き、徒に多くの人命が失われた過酷なレイテ決戦の実態にせまる。

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