2011年4月30日土曜日

原発事故の経緯 政府・東電の国民見殺し と 米国務長官ヒラリーの激怒と失望

怒鳴る首相、募った「東電不信」 初動混乱の原発事故


迷走1カ月半を検証 (1/2ページ) 2011/4/30 4:00

 「レベル7」という最悪の事故に至った福島第1原子力発電所の放射能漏れ。東京電力、原子力安全・保安院、首相官邸と官僚機構など日本の頭脳たる官民の組織は、初動から、その後の対処でも混乱の収拾は遅れた。幾重もの安全装置の壁を軽々と越えて浸入してきた未曽有の津波を前に的確な情報集約さえできず、米国からの支援も事実上、断るなど瞬時の判断を誤った。迷走した1カ月半。危機は必ず来るという前提で「想定外」に備える難しさを浮き彫りにした。

事故直後、官邸と東電との意思疎通が悪かった(3月15日、東電本店に入る菅首相)=共同

 海江田万里経済産業相は3月14日深夜、東京電力の清水正孝社長から電話を受けた。「放射線量が多く、これ以上、現場では作業ができません。第1原発から退避して第2原発に行きたい」
 爆発寸前の第1原発を事実上、見捨てて南に約10キロも離れた第2原発に大半が避難したらどうなるのか。政府と自衛隊に丸投げされても対処は不能だ。経産相から社長発言の報告を受けた菅直人首相は怒鳴った。「そんなことありえないだろ」

■溶融の恐れに衝撃

 現場は切迫していた。午前に3号機が水素爆発し、午後には2号機で水位低下。午後9時には炉心の燃料溶融に関し枝野幸男官房長官が1~3号機とも「可能性は高い」と言明し衝撃が走る。
 自衛隊員4人が午前の水素爆発で負傷し、防衛省は東電の「大丈夫」との判断に疑問を抱く。夜には中央特殊武器防護隊員らが郡山市の駐屯地に一時退く。
 同様に第1原発の近くで待機していた原子力安全・保安院の職員らも郡山に退く。住民は半径20キロ内からの避難指示だが、安全を担うはずの保安院は50キロ以上先の郡山へ。炉心溶融か、という極限の状況を考えれば、だれよりも危険を認識していた東電が人命を優先して事実上、第1原発からの全面撤退を決断したとしても一概に批判できない。
 一方で首相の東電不信は頂点に達していた。国の存亡、自身の進退を含め、あとはない。第1原発には6つの原子炉と7つの使用済み核燃料プールがある。「チェルノブイリ原発をはるかに超える規模なのに、最悪の事態に関して聞いても誰も答えられない」
 そこで首相は原子力災害対策特別措置法をよく調べるように指示。「原子力災害対策本部長(首相)は事業者に必要な指示をすることができる」との文言を見いだすと「これで東電との統合本部がつくれるか」と口にした。
 清水社長の官邸入りは15日午前4時17分。首相は「本当に撤退を考えているのか」とすごむ。清水社長は「いや、そうではありません。すべてを引き揚げるわけでは……」。

 東電側は「必要な人員だけ残し、その他は離れるとの判断なのに政府が取り違えた」(幹部)と説明する。だが、首相官邸と危機対応の現場では「複数のルートの情報があった。東電が事実上の撤退を念頭に置いていたのは間違いない」と見る関係者は少なくない。


■「東電に責任」

海江田経産相らが出席した統合本部の初会合(東電提供)

 首相の怒りは、初動の遅れ、計画停電での混乱など東電へのいら立ちが募った結果でもある。伏線はあった。2日前の13日午後、清水社長は首相官邸を訪ねている。「なぜこんな事態になったんだ。あまりに不手際を繰り返している」。首相は話が進むうちに突然、激高した。直前に首相は東芝の佐々木則夫社長に「行政がやれることはすべてやる。しっかり対応してほしい」と声をかけた。あまりに対照的な対応だった。
 首相は15日早朝の会談で清水社長に政府と東電の統合本部の設置を打診した。清水社長は「分かりました」と応じるほかなかった。首相が自ら東電本店に乗り込み、幹部らを前に「撤退したときは東電は百パーセントつぶれます」とぶった約1時間前の出来事だ。
 統合本部には首相の名代、細野豪志首相補佐官が常駐する。放射性物質の封じ込めから米国との連携までを一手に担う。首相周辺は「統合本部こそが原発対応の要」と解説する。
 政府が東電の意思決定プロセスに積極介入する一方で、東電を突き放すような態度も目立つ。厳しさを増す東電の経営に関して首相は「基本的には民間事業者としてがんばってもらいたい」との姿勢だ。賠償問題でも首相や枝野官房長官は「一義的には東電に責任がある」と歩調を合わせる。確かに「何十万件にもなるかもしれない訴訟案件を皆、国が引き受けることはできない」(政府高官)。

 4月17日に事故収束に向けて東電が発表した工程表の作成には政府側が強く関与している。「東電に工程表を作るよう指示した方がいい」と細野氏は進言。首相も東電の発表から5日後の記者会見で「国も含めて取り組めば十分、実現可能だ」と期待を口にした。
 東電ばかりを前面に出す姿勢には、政府内でも「官邸の責任の回避だ」との批判が残る。「一義的に東電、と言うのは責任逃れではなく、事実として東電の権限を国が制限する仕組みになっていないからだ」。馬淵澄夫首相補佐官は22日、講演で、東電の株主ではない国の関与には限界があると説明した。
 それなら国策としての原子力推進は一体誰が担ってきたのか。政府高官はぼやく。「結局、東電こそが原子力行政そのものだった」

クリントン長官の勇み足、日本の「甘さ」に一因


原発事故 迷走1カ月半を検証 (1/2ページ) 2011/4/30 4:00

日米外相会談を終え記者会見するクリントン米国務長官(左)と松本外相(17日、外務省飯倉公館)
 日米のあつれきが表面化したのは原発事故が抜き差しならない局面に入った3月11日。クリントン米国務長官の力強い発言がワシントン発のニュースとして流れ、必死の形相だった東京の危機管理に関わる担当者らの顔色が一瞬、ほころぶ。「米軍機で日本の原発施設の一つに非常に重要な冷却剤を輸送した。日本と米国市民のために可能な限り深く関与していく」。出席した大統領輸出評議会で誇らしげに報告したのだ。

■「東電で対処可能」
 危機管理の経験豊富な米軍が動きだした――。これで展望が開けると期待が膨らんだのもつかの間。実際に冷却剤が届いた事実はなく、後に国務省も間違いを認めた。クリントン長官も危機のさなかの日本政府は間違いなく支援を受け入れる、と踏んで「原発に輸送した」との過去形のニュアンスを出したとみられるが、勇み足だった。

 「問題は日本側にあった」。民主党幹部は、この段階では政府が米側の原子炉冷却に関する申し出を断っていたと証言する。早急な海水注入など廃炉/async/async.do/ae=P_LK_ILTERM;g=96958A90889DE2E6E5E2E0E1E0E2E0E4E2E1E0E2E3E29BE0E2E2E2E2;dv=pc;sv=NXが前提だったからだ。菅直人首相も炉心溶融の危機を十分に認識せず、米国頼みではない自前の対処に傾く。この時、東京電力も「自社で対応できる」と報告していた。
 13日、首相官邸での緊急災害対策本部の会合。北沢俊美防衛相は「ルース駐日米大使から電話があり、エネルギー省副長官が日本政府と意見交換したいと言っている、きちんと話をしてほしい」と発言する。
 情報を要求する米国の強い態度に日本側でも反発が出る。政府関係者は「経済産業省は東京電力と原子力安全・保安院との関係が深い一方で、事故の当事者意識が希薄。『米原子力規制委員会(NRC)などは日本の原発事故の生情報を取りたいだけだ』と突き放していた」と指摘する。
 この間、水素爆発が相次ぎ事態は悪化する。米国との信頼関係も揺らぎ、ついに首相も日米の緊密な連携への方向転換を迫られた。

■米側に募る不信感


 「ちょっと残っていただけますか」。首相官邸での16日の会議後、首相は防衛相を呼び止めた。「日米の連携がうまくいかず困っている」。袖にされていた米側の不信感は強く、NRCとの関係修復が課題だった。同じ頃、ルース大使は民主党有力議員に電話した。「日本政府は危機感を持っているのか。米側の協力を受ける気があるのか」
 変化の兆しが見えたのは自衛隊ヘリが3号機に水を投下した17日。防衛相と会ったNRC幹部のカスト氏は「やっと日本の閣僚に会えた」と表情を緩め、防衛省内で外務省や経産省、NRC、在日米軍の会議の開催が決まった。
 それでももつれた糸を解きほぐすのは難しい。19日の会議では米側が原子炉への窒素注入や格納容器を水で満たす「水棺」を提案した。ともに4月に実行されたが当時は原子力安全・保安院や東電が慎重だった。民間では米建設大手ベクテルの幹部が16日ごろ、首相官邸に「日米間の情報共有を統括するスタッフを置くべきだ」との書簡を送ったが1カ月も放置された。
 米側の不信を伝え聞いた首相官邸は22日、細野豪志首相補佐官がトップの日米実務者協議を設ける。官邸のスタッフは「この頃から日米の意思疎通がスムーズになった」と振り返る。
 それから1カ月後。米国では大半が休日扱いの聖金曜日に藤崎一郎駐米大使は国務省にナイズ国務副長官を訪ねた。「米国は何でもやる」と今後の支援を約束したナイズ氏はモルガン・スタンレーの最高執行責任者(COO)を務めたウォール街出身。
カンター米通商代表部代表のスタッフだった経歴から通商問題に精通し、クリントン長官の訪日の舞台裏を取り仕切った人物だ。
 ナイズ氏は震災の米経済への影響を懸念し、訪日前のクリントン長官に「日本は営業中、とのメッセージが大事です」と進言。米経済界には巨額の復興予算への期待もにじみ、全米商工会議所のドナヒュー会頭は復興ファンドを提唱した。ナイズ氏はクリントン長官来日にドナヒュー氏を同行させ政経一体も演出した。
 来日したクリントン長官は4月17日、松本剛明外相に明言した。「訪日目的は日本がビジネス先、渡航先として大丈夫と示すことだ」。震災発生からは既に1カ月以上が過ぎていた。

放射性物質の拡散予測、「二重行政」で遅れた公表


原発事故 迷走1カ月半を検証 2011/4/30 4:00

 放射性物質の拡散を予測する文部科学省の「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)」。第1原発の事故での初公開は1号機の水素爆発から10日以上過ぎた3月23日午後9時だ。枝野幸男官房長官は「文科省に放射能の広がりを逆算できないか指示してきたが(原発から出た放射性物質量の)データがなく難しいとのことだった」と説明した。

 結局、公表に踏み切ったのは開発者たる文科省ではなく内閣府の原子力安全委員会。班目春樹委員長も「(事故後に)なぜか突然、(専門家の立場で)評価してくれと言われた」と文科省の“丸投げ”を示唆する。安全委と経済産業省の原子力安全・保安院の関係もぎくしゃくし「二重行政」が責任の所在をあいまいにする。監督役のはずの班目委員長さえ「保安院が情報を出さない。規制官庁としての見解がない」と憤る。

 安全委は「炉心溶融の可能性」に事故直後から言及する一方、保安院は4月18日にようやく溶融を正式に認めたが「ペレットは溶けたが、(すべての)燃料が溶け落ちる炉心溶融とは異なる」と説明した。

1カ月後のレベル7 「ムラの論理」が遅れ招く


原発事故 迷走1カ月半を検証 2011/4/30 4:00

無人機で撮影した東京電力福島第1原子力発電所(3月24日)=エアフォートサービス提供

 「福島第1原発事故をレベル7と暫定評価」。4月12日、経済産業省原子力安全・保安院の西山英彦審議官は厳しい表情だった。国際原子力事象評価尺度(INES)では最悪。「フクシマ」はチェルノブイリと同じ重大事故の代名詞になった。

 レベル7の根拠は「数万テラベクレル(テラは1兆)の放射性物質の数時間にわたる放出」。共同会見した原子力安全委員会は、3月15日から数日にわたり、高水準の放射性物質の放出が続いたとする。
 1カ月前のデータによる突然のレベル7宣言。国民にはそう映った。保安院は3月18日にINESをレベル5に上げて以降は据え置く。「変更に値する事象が起きれば見直す」。西山氏は繰り返していたが、事象が起きたのははるか前だった。

1986年事故直後のチェルノブイリ原発=AP

 安全委は早くから把握していたフシがある。安全委が放射性物質の拡散予測を初公開した3月23日。班目春樹委員長は前提として「400兆ベクレルの放出を仮定」と口にした。各地の数字からINES基準では既にレベル6だったが安全委と保安院が議論した形跡はない。

 「驚くことではない」。レベル7宣言の翌13日、米原子力規制委員会(NRC)のヤツコ委員長は冷静だった。虚を突かれた日本国民とは対照的だった。「原子力行政は縦割りで意思疎通が乏しい。見直しは不可避だ」。原子力関連の政府組織OBは自嘲気味に語る。縄張りを越えない「ムラの論理」。過去の原子力事故でも指摘された悪弊がまた顔をのぞかせた。

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